実話怪談って?妖怪って?

昨日から、この辺りの話が過熱しているようです。
この経緯を見ておりますと、中々興味深い展開で、色々と考えてしまいますね。
実話怪談書籍を読む目的ってなんだろう?とか(笑)


信憑性について論じるのは、二次的に発生すべき事柄じゃないかな?と思う私は
ただの実話怪談ファンなのですが、とりあえず考えてみましょう。


・実話怪談にソースの公開は必要か?
昔から実話怪談書籍を見ると、『話の提供者のプライバシーを考慮して、地名・
名前などは仮のものにしてあります』とあります。
これは何故なのでしょう?もちろん、創作であるからかもしれません。
けれど、大半は違う理由であるはずです。
例えば、怪異が起こった場所の詳しい位置を公開したとしましょう。
その際、研究や検証には大変有益な情報になります。が、それをする事によって
どういった不具合が生じるか?答えは簡単です。
『誰も彼もがその現場に押しかけて、住民に迷惑がかかったり、事故が起こる可
能性がある』のです。実際、マスコミが公開した場所などで、トラブルがあった
例も見聞きします。後は皆までいわなくても分かるはずです。
実話怪談著者が、ソースの公開をしない理由=話の提供者や周囲に迷惑をかけな
い為でしょう。それと話者のプライバシーを守る事によって、信頼という大切も
のを築く事、それが次の取材へ繋がっていくのではないでしょうか?
よって、デメリットの多い『ソースの公開』に関してはあまり必要ではない、と
思います。


・実話怪談著者の妖怪怪談へのアプローチは難しいものか?
民俗学的なアプローチであるフィールドワークを取り入れて採話している妖怪
研究側と比べて、実話怪談はどこからどこまできちんと採話しているのか分から
ない。それなのに、妖怪について書かれてもそれはただの娯楽作品でしかない。
実話怪談畑の人に妖怪は難しい』…という話も聞きましたが、実話怪談を採話し
ている時に集まってきた『どうにも説明がつかない』話や『見てしまった』話を
公開しているわけで、今までも実話怪談側は妖怪怪談へアプローチしています。
民俗学的なアプローチではないかもしれませんが、きちんと体験者に取材をして
収録しているわけですから、決していいかげんなスタンスではないのです。
90年代から「新耳袋」や「「超」怖い話」は率先してそういった話を収録して
きたのですし、また94年には中山市朗氏が「現代妖怪談義・妖怪現る!」を著
せば05年には加藤一氏が「妖弄記」を著しています。
この2作は同じ方向性の書籍ではありませんが、素晴らしいものだと思います。
単に「畑違いだ!」と排除するより、新たな選択肢が増えたと思ったほうがよい
と思うのですがどうでしょうか?


・漫画:アニメに出てきた妖怪は捏造なのか?
水木しげる鳥山石燕の書いたイメージの妖怪を見ることは捏造である』
『脳内映像は妖怪、ひいては怪談ですらないのではないか?』
これは少し短絡的でしょう。
見てしまったものはしょうがないですし、それがもし過去のインプットからの幻
覚だ、と言われても『それを証明することが出来ない』のではないでしょうか?
存在を証明できなければ、存在しないことも証明できない…という話もあります
から…。柔軟な姿勢が必要ではないでしょうか?
確か以前『創作妖怪を見たとしても、沢山の人が見ているのなら妖怪認定したら
どうか?』とおっしゃっていた方がいた、と記憶しています。
その方の論を借りれば…と思いましたが、妖怪は認定するものではないような気
もしますね。



・実話怪談の定義ってなんなの?
なんでしょう(笑)?
『体験者から聞いた怪談を、なるべく加工せずに怪異の肝を活かしつつ、一つの
物語にトランスレートしたもの』でしょうか?
これに関しては、実話怪談著者それぞれに定義があるはずですし、読者それぞれ
にもあるはずです。
定義定義と言って、凝り固まってしまうのは詰まらない事と思います。


・実話怪談の信憑性は?
『そこに検証がない上、体験者を信用できるかなんて分からない。信用できる体
験者以外から聞かない限り、認められない』と言う話もあります。
さて、ここで問題になるのは


1:検証しようにも、再現性がない/出来ない。
2:体験者への信用は採話者に委ねられる。


という事なのですが、これに関して幾つか考えて見ましょう。
の再現性に関しては『何度も再現できる事は、もはや怪異ではない』の
ではないでしょうか?再現出来る現象なら、それは機知の現象であり怪異ではなく
なるでしょう。それに、出来うる検証といえば、トリックがないかくらいなのです
が、結局それは意味のないことでしかありません。
そしてに関して言えば、採話者が『この人に直に会って話せば、信用できるか
本当の話なのか分かる』と言う話を聞くことがあります。しかし…これは採話者
の主観でしかないわけですから、客観性は皆無ではないでしょうか?
目の前で体験者が体験した怪異の再現を行う事は不可能でしょうから。
それを踏まえると『信用できる体験者以外から聞かない限り、認められない』と
いう主張は主観からくるものであり、信憑性を証明する理由としては却下せざる
を得ません。
けれど、体験者は『確かに見た』のでありますから、頭ごなしに信憑性を論じる事
は危険である、と言えるでしょう。
しかし、信憑性に関して云々するより、まず怪談を楽しむことが重要かもしれませ
ん。謎があり、楽しむ隙間がある。それが実話怪談の魅力でもあるのではないでし
ょうか?


私が実話怪談を読む目的は、まず『面白いから』です。
また未知の物への憧憬・畏怖する気持ちから発生する『興味』からかもしれません。
実話怪談はまず『娯楽』ではないでしょうか?
だから、昔から『この話は本当なんだけど……』と続いてきたのでしょう。
小難しい事を四の五の言う前に、『まず楽しむ事』、それから読者が感じた事を
楽しんで語り合えばいい…と思うのです。
これが実話怪談との良い付き合い方ではないでしょうか?
自由な楽しみ方で、これからも実話怪談と付き合っていきたいものです。