東雅夫氏、吼える!

という仰々しいタイトルですが、ノリで書いただけです。

とりあえず、幻妖ブックブログから引用。

ネットの怪談系サイトの一部などには、文芸とか文学という言葉に対して妙な拒絶反応を示し、いわゆる「実話怪談」は文芸にあらずという珍説を唱える向きがあるようです。
 これは遺憾ながら、見当はずれであると云わざるをえません。
 今回の拙文中より、ちょっとだけ引用しておきます。

 創作であれ実話であれ、文字で書き記された怪談というものは、現実にはありえないはずの超自然的な出来事を、文章によって紙上に表現することにより、読者を怖がらせることを主眼とする技芸(アート)であると、私は考えている。
 もっと平たく云えば、文章の芸で人を怖がらせる営み――それこそが怪談なのであり、だからこそ怪談について考えたり、それを客観的に評価する上では、その文芸性がなにより重んじられることになるのだ。

 たとえば三遊亭円朝岡本綺堂の語り口、あるいは〈新耳袋〉の木原&中山コンビや〈「超」怖い話〉の平山夢明氏、はたまた松谷みよ子さんや工藤美代子さん、加門七海さんや福澤徹三さん、小池壮彦さんらの諸著作……これらは紛れもない文芸としての怪談の優れた達成例ですが、そのいずれにも難解・高尚な表現など、どこにも見あたりません。幅広い層の読者にすんなり受け入れられるような、シンプルだけれど選び抜かれ考え抜かれた言葉や表現を積み重ねることで、超自然の戦慄を読むものに感得せしめる「技芸」のお手本――すなわち「匠の技」が、そこには見いだされるはずです。

 以上、実話系怪談における文芸性をめぐって贅言を連ねましたが、もちろん「『幽』怪談文学賞」が求めているのは、実話系の作品ばかりではありません。
 とりわけ長篇部門においては、「怪談的なるもの」を核にした、自由な発想と斬新なアプローチによる小説作品を切望しております。
 たとえば、このほど選考委員としてお迎えすることになった岩井志麻子さんの一連の作品や、同じく選考委員である京極夏彦さんの「幽霊小説」連作などは、その良き実践例となるのではないでしょうか。

いやー、なんだこりゃ(大笑)。
珍説ですみませんね(微笑)。
私個人は「実話怪談は文芸じゃない」と思います。
(と書いて、実話怪談は質の低いものである!とか論じられても困りますが)
創作怪談小説・ホラージャパネスクは、文芸/文学で構いません。


微妙な話になりますが、「(実話怪談も怪談小説も)文章の芸で人を怖がらせる営み」というのが「実話怪談は文芸じゃない」と思う原因でもあるんですよね。
超-1でも言われていますが「文章は怖いんだけど、ネタが怖くない。ので詰まらない」という評価。←これ重要。
起きている事は「現実では起こりえないとしか考えられない出来事」であっても、それがつまらないと、いくら文章が上手くても、実話怪談としての評価が低くなるのは何故でしょうか?


実話怪談と言うのは「ルポルタージュとしての側面」が極端に出ると思うんです。
文章の芸で人を怖がらせるのは、ホラー小説という創作で出来ますから。
ホラー小説とか怪談小説って、文章だけでも怖いじゃないですか。
例えば、部屋に女の幽霊がいます、と言うのでさえも、とんでもなく怖くできる。
対する実話怪談は文章だけでは怖がらせることが出来ないのですね。
体験者からの採話、その取捨選択、読者に恐怖を的確に伝える為の構成。
特に「体験談の採話」に左右されるわけです。
もし、実話怪談が「文章の芸で人を怖がらせる営み」だけだったら、ホラー小説や怪談小説を変わらないわけです。
この辺りを理解せずに「実話怪談は文章の芸である」とか言われても困るわけで。


と書いてきましたが、別に「実話怪談は文芸である」と言ってもらっても構わないと思います。それもその人には「あり」でしょうし。
例え「実話怪談はメルヘンである!」でも「あり」でしょう。
私個人は「違うんじゃないのかなぁ」と思いますが(笑)。
問題は、東雅夫氏ともあろう方が意見の一つでしかない物を「珍説」「見当はずれ」とはっきりと書いてしまったことですね。
「実話怪談は文芸だ。違うと言っている奴、皆珍説。見当はずれ。正しいのは実話怪談文芸説」なんて言っていると認識されますよ。
はっきり言って、排他主義に見えて仕方ありません。
「私はこう思うんだけど、他ではこういう意見もある。私はそれを間違いと思う。だが、それはそれで一つの意見だ」と認識すべきではないでしょうか?